As me

 いぬのジェイクとダニーはしんゆう。いつもいっしょに、あそんだり、いたずらをしている。ところが、おかあさんにおこられた時だけは別。ジェイクが何も話せないのをいいことにすべて悪い事はジェイクのせいにしているが・・・。

 世界的スピーカー、モチベーション・スペシャリストであるピーターセージ氏のロンドンでの講演会ビデオ(ジェームス事務所で購入)を鑑賞した。非常に歯切れが良く、リズミ感のある話し方で聴衆を引きつけて話す様は、日頃質の高い活動をしていることを物語っている。この講演会の中で、彼は人には’To me’, ‘By me’, ‘Through me’と’As me’の4パターンあるという。To meとは、川の対岸におり、誰かが迎えに来るのを待ち、もし来なければ苦情を申し立てる人間、By meとは、待っても誰が来ない事は知っており、自らの腕力にまかせて泳ぎきろうとする人間、Through meとは、流れに逆らってもどうにもならない事を知り、ただ川の流れに身を任せる人間、そしてAs meとは自分自身を周りの存在とのつながりの中で感じる人間である。To meからBy meには、人からの支援を待つ事をあきらめ、By meからThrough meには、あがらうことをあきらめ、そしてThrough meからAs meには、自分自身を主張をすることをあきらめる。彼によれば、世のマスターと言われる人物は最後のAs meに達しているとのことだった。

 
 前述の1匹と一人の関係はやったりやられたりで、対等にお互い張りはっていると同時にその存在を認め合っているからまだ救われる。ところが、年を積み重ね、安定という衣を重ね着するに連れ、本来の自分らしさが沼底に沈みきり、いつのまにか立派なTo meになってしまう。自分で嫌だ、何とかしたいと思いながらも、表面的には取り繕いそこに触れられる事を嫌がる。本来なら、子供のあの光り輝く笑顔は人類の宝であり、希望の星のはずである。ところが、あの光そのものが嫌悪の対象となり、消し去ろうとする大人がショッキングな事件を引き起こしている。子供らの笑顔の源泉は成長であり、変化であり、未来であろう。とすれば、今の社会にはそれらを否定しようとする傾向があり、社会の影響を強く受けやすい不安定な層がそれを体現し、結果として子ども達に当たり散らしているに過ぎないのではなかろうか?

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