哲学する

今、十年後に消える職業というテーマ(https://gendai.ismedia.jp/articles/-/40925)がネット上で散見される。今まで社会から必要とされている確実されていた職業が技術進歩により、人の技能や知識が不必要になり、現在その職業に就いている人間にとって将来的には死活問題になるだろう。

が、より大きな問題になるのが、これから社会に出ていく世代だろう。これまでの世代はそれまでの蓄積や実績等で何とかしのげるかもしれない。しかしもし代替可能な職業を選択してしまった場合、新世代は時代の進展とともに代替技術が競合となり、次第に賃金競争に巻き込まれ将来が危うくなるだろう。

売上は人数×顧客単価であり、より多くの人々を相手にするのか、より高い単価となった時に、高い売上を得る事が出来る。そして個人の報酬はその売上の一部が割り当てられる。前者の代表がマスを顧客にするネット産業であり、後者のタイプが個別の人や組織に多くの時間を割り当てるコンサルティング等の職業に該当するだろう。

貨幣による価値(即ちニーズや欲求)交換している限り(スタートレックの世界では貨幣は存在していないようだが)、自らの手でその時代にあった価値を提供していく必要がある。が、これから将来、技術進歩によりどの様な社会や産業構造になるのかが推測はできても確実な描写は難しい。人の技能や知識も積み重ねられて一流になるのであり、時間が必要である。さてこの状況下で不可欠な要素は、「哲学」する力であろう。既存の概念や常識は、パラダイムシフトと共にいずれ再編成され、次の時代では「笑い話」になる。昭和世代の昔話を聞けば、その事がより実感出来るであろう。

哲学するとは、言葉に象徴されている体験や概念の再構築である。例えば「教育」という概念は、「教」と「育」から構成される。「教」や「育」とはどの様な状況を意味するのであろう。或いは「教」を「する」側の視点に立つなら、「される」側の視点では、どの様な言葉に翻訳されるのであろうか。そして、そこに存在するのは、どのような意味(価値観や感覚、感情等のアナログな存在)だろうか。それらを経た上で自身のこれからの生活や生産スタイルに最適だと推測される理論の再構築を、幅広い行動で得られた体験の中で日々積み上げる。

哲学は思考する事の習慣化であり、日々の生活習慣である。慣れてしまえば自然に行なうようになる。またこの哲学する習慣化を通じて、自分の内にある感情というドラゴンの多様な側面をバランス良く引き出す事が可能となる。不確実な「未来」の到来を、「今」のライブ感覚と「過去」に遭遇し学習した多様な考え方を活かす事で、愼みながらも楽しみながら波乗りする。そんな人生はいかがだろうか。それとも幼き頃の様に理解し難い周りの思惑で突き動かされ、時に膝を曲げざるを得なかった人生を最後まで過ごしたい?






おとなとは

ある日、電車に乗っているとこんな風景に遭遇した。二人の大人と子供が互いの足をまるでサッカーのボールがあるかの様にその場で蹴り合い、傍らで二人よりも年をとったご婦人が微笑んでいるかのように眺めていた。これを見た時、じゃれあっている二人は親子で傍らの人が祖母なのかなと推測した。ところが、その側にいた別な男性が喧嘩をしちゃいけん、と仲裁に入っていた。

同じ場面に遭遇しながら、正反対の見方。人は心地良い状況や人の在り方を受け入れる一方で、不快を感じるそれらに拒絶反応を示す。この社会や世界には、いくつものローカルがあり、それぞれのローカルにはそれぞれの価値観が存在する。一般的に人は成長するにつれ、それらの複数のローカルの世界観を体感する事で、一つの尺度で判断する事の危うさを知る様になる。それが、「大人」になるという意味であろう。
が、時にその人にとって心地良いと感じる一つのローカルに安住する人も存在する。それはその人の内に留まれば問題ないが、問題はその世界観が絶対的に正しいと押し付けてしまう事である。

人は成長し、多様な世界や価値観の中で生き、瑶々と時を過ごす。各時代やその地域・世界で活動する時、その固定的な考え方が妨げになりかねない。助言や情報提供はあり得よう。が結局、人は、場所や時の旅人であり、永遠に側に付き添う事は不可である。自分が相手より大人であるとの自覚があり、真に愛するなら、相手の可能性を信じ抜き、情報提供をしつつも、多様な考え方を身につける場を与える事である。小人は小さな世界観を持ち相手に自身の見方を押しつけ、逆に大人は大きな世界観を持つが故に「おとな」と呼ばれ、その多様性を楽しむ。もし「大人」と名乗りながら、自身の見方を強制するのであれば、それは単に身丈が大きい「小人」に過ぎない。

Couple enjoying a glass of wine by the beach