ある日、電車に乗っているとこんな風景に遭遇した。二人の大人と子供が互いの足をまるでサッカーのボールがあるかの様にその場で蹴り合い、傍らで二人よりも年をとったご婦人が微笑んでいるかのように眺めていた。これを見た時、じゃれあっている二人は親子で傍らの人が祖母なのかなと推測した。ところが、その側にいた別な男性が喧嘩をしちゃいけん、と仲裁に入っていた。
同じ場面に遭遇しながら、正反対の見方。人は心地良い状況や人の在り方を受け入れる一方で、不快を感じるそれらに拒絶反応を示す。この社会や世界には、いくつものローカルがあり、それぞれのローカルにはそれぞれの価値観が存在する。一般的に人は成長するにつれ、それらの複数のローカルの世界観を体感する事で、一つの尺度で判断する事の危うさを知る様になる。それが、「大人」になるという意味であろう。
が、時にその人にとって心地良いと感じる一つのローカルに安住する人も存在する。それはその人の内に留まれば問題ないが、問題はその世界観が絶対的に正しいと押し付けてしまう事である。
人は成長し、多様な世界や価値観の中で生き、瑶々と時を過ごす。各時代やその地域・世界で活動する時、その固定的な考え方が妨げになりかねない。助言や情報提供はあり得よう。が結局、人は、場所や時の旅人であり、永遠に側に付き添う事は不可である。自分が相手より大人であるとの自覚があり、真に愛するなら、相手の可能性を信じ抜き、情報提供をしつつも、多様な考え方を身につける場を与える事である。小人は小さな世界観を持ち相手に自身の見方を押しつけ、逆に大人は大きな世界観を持つが故に「おとな」と呼ばれ、その多様性を楽しむ。もし「大人」と名乗りながら、自身の見方を強制するのであれば、それは単に身丈が大きい「小人」に過ぎない。