サービス・マネジメント2

 人と相互理解(=コミュニケーション)し、信頼関係を築くには、その程度の差こそあれ、その相手の「図と地」への認識と共感が必要である。図(figure)とは「形」であり、意識するものであり、地(backgroud)は、その形の後ろにあり、普通、意識に上がって来ない、「背景」となるものである。

 企業が人をシステムに組み込み、モノ化する時は、例えば、コンビニエンスでスタッフとして採用する時には、(出来る)行為、すなわち業績とか能力を、形として意識に上げ、逆にその背景にある一切のものを無色透明な存在として扱う。そのスタッフが、誰かの「父」であれ、「子」であれ、関係ない。

 企業側の立場で見るなら、一定のエラー発生率内でサービス活動を提供し、効率的な運営を目指す時には、個人をモノ化し、その背景を無視した方が良い。だからこそ、新聞紙上で時折、話題になる「パワーハラスメント」的な出来事も生じてしまう事もあるのだろう。なぜなら、相手を「モノ」として見做せば、相手に対して「痛み」を感じ得ないし、その限界もなくなる。

 もし、過去に「痛み」を共有する関係、例えば、身内や同期だったとしたら、どうだろう?相手が涙を流したり、痛みのあまり顔をしかめれば、その姿が引き金になり、自分自身の中にある「痛み」も増幅し、とてもじゃないが、粗暴な言動は続けられないだろう。痛みを内に感じながらも、なお相手を処罰する行為は、それは「馬謖、泣いて切る」ぐらいの事だろうと思う。

 しかし一方で、この「モノ化」を目指したシステム的な考え方には、一つの前提があり、それが崩れてしまうと、このモノ化の必要性が必ずしも正しいとは言えなくなり、その運営や指導のあり方の見直しが必要になる。それは、現場で生じるサービス内容そのものが、クライエントのニーズの多様化により、事前に予測し難い時である。

 戦略ー企画ー販促ー生産ー流通ー販売ーカスタマー等の様な商品の場合は、生産と販売が分離される為、ヒトのモノ化は容易かもしれない。しかし、スタッフが消費者と同じステージで協同作業し、サービス行為を提供している場合、スタッフと顧客は同じ「空気」を共有している事になる。萎縮しているスタッフがいくら言葉で「楽しいですね。」と言った所で、果たしてその顧客は心地良さを感じるであろうか?運営の論理として、このスタッフは効率性が低いと言ったとしても、顧客はそんなスタッフを「好き」なのかもしれない。

 企業の目的は、利益率の向上であり、永続的存続だと思う。その為には、顧客との「真実の瞬間」を増やし、多くの感動を与える事が必要なのではないのかなと思う。「好きな」スタッフが、モノの様に切り捨てられる「空気」を吸えば、その顧客も同様にそのスタッフの痛みを感じてしまうであろう。そして、その企業の表向きのビジョンが実は、単なる社長の表看板である事を感じ、「それなりの」つき合い方にとどめて行くであろう。

 マネジメント層も、ひとりの人として、現場スタッフに眼差しを向ける視点も大事だろうと感じている。

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