不思議をテーマに複数の物語が語られていく、”Twilight Zone”という番組が米国にある。それぞれの物語は異なる監督が担当しており、これらの監督の中に、あの”ET”監督のスピルバーグも含まれる。彼はいくつかの物語を担当しているが、その中に”Kick the can”という物語がある。
夜中に蹴って遊んでいると、子どもに戻ってしまうという、魔法の缶を与えられた老人6人が老人ホームの職員の目を盗んで、外に出ようとする場面がある。その中で、6人は盛り上がってすぐに実行に移す事になるのだが、残りの一人だけは仲間の説得には答えようとせず、そんな事はあり得ないと言い張る。そしてついにはその男の幼なじみの友人がその男に「結局、失敗をするのが怖いんだね」と台詞をはくシーンがある。
人は小さな事であれ、大きな事であれ、日々何らかの価値判断をしている。右に行くのか、左に行くのか、進むのか、止まるのか。「夜中に抜け出す」というそれまでの”ルール”とは大きくはずれる行為でない限り、人はそれほど悩む事無く、他人との差異に悩む事無く、その場の雰囲気で「小さな」決断を繰り返していく。ところが、それまでの「標準的で、当然視されている」行為から大きくずれる行為をする時に、上述の場面の様な葛藤が生じてしまい、両者の思考パターンの違いが浮き彫りになる。
過去から物事を積み上げていくと見るのか、未来の目標に向けて、今を築き上げていくと見るのか、両方の思考は、どちらがだめで、どちらが良いという二者択一的な問題ではない。両方とも必要な考え方なのである。だが、両方とも、ある目的を達成する為に必要な「思考手段」である事は忘れるべきでないだろう。人はややもすると、本来手段であった思考パターンを身につけ、成功体験を繰り返すうちに、そのパターンに固執する様になる。思考パターンの違いではなく、そこに固執する所に、溝が生まれてしまうのである。
固執する先にあるものは、「自分自身」であろう。自分の「今」の既得権益を確保しようとする思いが強すぎる為に、自分がこの世に生存しない、でも「孫」が生存している社会がどうなっているかに興味関心がなくなっているのではないのか?目標が共有化できず、しかも両者の利害が絡んでくるなら、最終的には「戦争」で解決しましょうと言うのが、今の有り様なのであろう。まったくの愚作である。