昔、ある村に農夫がいて、畑作業や動物たちの世話をしながら、日々の生計を営んでいた。そんな村に、ある男が訪れた。その男は、あちらこちらを旅をしながら、今となっては珍しくなり骨董品となってしまった道具等を集め、それを大きな町で売り払っていたのだ。
さっそく、彼は町の中を散策し、珍しいものを探し始め、すぐにそれが目に留まった。それは、「鷲(わし)」であった。別に鷲そのものが珍しかったわけではなく、空を見上げれば、あちらこちらでお目にかかれた訳だから、その男の目を引いた理由は別にあった。それは、その農夫が卵を手に入れる為に飼っておいた「鶏(にわとり)」と同じ養鶏場に住み、その鶏と同じように行動し、えさをついばんでいたからだ。
男は不思議に思い、農夫にその理由を尋ねた。彼が答えるには、「ある日、森の中をさまよい歩き続けていると、どこからひなの鳴く声がする訳だ。どこから聞こえるのかとあちらこちらと探し歩いていると、大きな木の根元に鷲のひなが落ちているじゃないか。こりゃ、こりゃと思い、抱え、持ち帰ったんだ。」
しかし、その答えに満足せず、男は続けて聞いた。「でも、これは鷲ですよね。にわとりと同じように地面を歩き、餌をついばんでいる姿はちと、驚きましたね。どうなんです?」と。そして農夫も、その質問には直接返答をせず、「だがな、それでどうすればいいんじゃ?」と答えるばかりだった。そこで、男は、農夫に提案した。すなわち、鷲としての可能性を試してはどうだろうかと。
次の日から、その案を実行する事になった。まず、草原にその鷲を連れて行き、そして、鷲に言った。「おまえの本来、いる場所は、にわとり達が生活する、あの空間だろうか。それとも、この広い大地を抱える空の下だろうか。」と。しかし、その鷲はそれまでに住んでいた空間と比べて、あまりに広い空間におびえ、飛び立つ事を断固として拒否した。
そして、次の日。男は、少し小高い丘に、その鷲を連れて行った。前日、広い大地を体験したせいか、鷲は少し、落ち着いていた。そして、男は再び、鷲に話しかけた。「おまえは、いつも地面に張り付いたように歩き、そして、上から落ちてくる餌を探しあるきながら、毎日を過ごしている。これからもずっと、同じような時を積み重ね続けるのか、それとも、自らの翼を使って風の流れに乗りながら、大地を見下ろし、そして生きていく道を選ぶのか。」と。しかし、その鷲は、自らの翼で空を飛ぶという事が信じられず、そこから飛び立つ事が出来なかった。
農夫は言う。「もう、だめなんじゃないのか。それだけ、やっても、やはり、この鷲の姿はみかけだけで、実はにわとりの生活に慣れ親しみすぎて、飛び立つ事が出来ない『鶏』になってしまったんじゃないのかの。」と。男も確かに、その限界を感じ始めていた。が、それでも何か希望のような、ひらめきのようなものも感じていた。それは、日頃、誰も見向きしない古いものから、価値のあるものを見出す仕事をして鍛えられていた一種の勘というものが働いていたせいかもしれない。
翌日、彼は、勝負に出た。その鷲を連れて行った場所は、それまでの場所とは違い、高地にある崖の先端部分であった。そこは、平地とは違い、空気も薄く、また高い場所であったから、太陽からの温かさや紫外線が肌に直接、届くような感じで、そこに長くいると、日焼けしそうであった。そこで男はその鷲に言う。「おまえは、これからどこに行こうとするのだろう。地平線も、草木ではばまれ、部分的に見る事しか出来ない場所である鶏小屋がいいのか、それとも、この横一面に広がる地平線が見える場所か。おまえには、翼がある。それは、鶏には無い。翼があるが故に飛ぶ事も出来る。どちらを選ぶのだろう、天上の存在としてか、それとも地上の存在としてか。」と。
そのとき、その鷲は、上を見た。ギラギラと輝く太陽を。そして、それまで体の中に小さくたたまれていた翼を広げ、ゆっくりと、しかし力強く、上下させ、そして、それを更に加速させ、そして、ついに男の手から離れ、空に向かって、飛び立った。
鷲は、自分がかって住んでいた鶏小屋の上を大きく迂回しながらも、地平線のかなたに消えて行った。
(参照・引用「自己実現への道」p149-p150、M・ジェイムス他著、社会思想社)