人が生きている限り、そこには色が有る。赤も有り、黄色、緑色、多様な色が、誕生とともに混じり合い、そして、終末期に向かう中で、写真の様に、フルカラーからセピア色、そしてついには、色が消えて行く。それがたとえ、「苦痛」であれ、「喜び」であれ、生きているからこそ、観る事の出来る色なのであろう。
人は色を求める。何故なら、人はこの世に生存し、生き続けたいと思うから。もちろん、その色の混じり合いは、調和のとれた組み合わせが望ましい。補色同士の色の組み合わせであったり、全ての色を混ぜ合わせ過ぎて、黒色に近い色は、望ましくない。
人は何故、希望をなくすのだろうか。それは、キャンパスに黒に近い色しか、塗れなくなるから。
経営者の仕事は、「通貨」という交換ツールを使用し、この社会のあらゆる価値を交換する為の「システム」を創造したり、維持したりする事である。一般的には、そのシステムは、ビジネスモデルと呼ばれる。だから、そのシステムはあくまでも、社会で生じている課題や方向性に大きく依存し、そこで発生した「価値」を解決する事が求められる。もし、それが「痛み」の解消や「快楽」の創造であれば、それを解消するサービスやモノが必要とされ、それらの「商品」を提供し続けられる仕組み(=ビジネスモデル)を創造し、維持し、発展する仕事(=マネジメント)が不可欠になる。
今、SNSを始めとするインターネットの発展により、ヒエラルキー型のコマンド・スタイルではない、ネットワーク型のコミュニケーション・スタイルに慣れ親しんだ人々の割合が多くなり、モノやサービスを生み出す働き手の中核になっている。
今、この日本社会は、果たして、そんなコミュニケーション・スタイルの人々の意欲を引き出すシステムが存在するのだろうか?システムのコントロールを担っている人々は、単に持続的優位性だけを担保しようとしていないだろうか?そこでは、コモディティ化されたモノやサービスの商品が中核となり、価格競争に巻き込まれ、それを提供する働き手自身もコモディティ商品となる。
こんな社会で、新しいスタイルに慣れ親しんだ人々がサバイバルするには、自らをモノ化して「考える葦」を止めるか、青い鳥を探して漂うか、「外の世界」に脱出するしかないだろう。結局、この日本社会の担い手である次世代の人々を育てる機会を、自らのレガシーシステムの維持と引き換えに、無くしている。
会社は、この社会を豊かな色に染める為にある。だからこそ、様々な「特権」が社会から与えられている。そして、その使命を満たさない会社は、株式会社であれば、市場原理の元で、本来、淘汰される(はず)。ノーブルオブリジェ、日本的に言えば、「ハラキリ」がうまく機能していないのであろう。