起点

ゆめのおはなし

 ウォルターは普通の男の子。それにゴミの分別にも、木の水やりにも全く興味がない。でも彼は行ってみたい「みらいの世界」があった。ロボットがいて、好きなものを好きなだけ食べられる世界へ。その晩、彼のベットがういて、未来に飛んだ。彼の思い描いていた「未来」とは違う「未来」へ。・・・・・
彼はもとの世界に戻ってきた。そして前日、していなかった分別ゴミも仕分けし、そして誕生日の日には木を植えた。

 人が物事を考える時の起点には、「今」と「未来」がある。「今」には、自分の存在を前提に考えるが、「未来」に、自分が存在する事は不確かである。もし自分の存在を前提に考えて「先」の出来事を考えているとしたら、それは単に「今」の延長線上にある思考に過ぎない。
 遠くにある星々を見ていると、まるで仲良く寄り添っているように見える。しかし実際の距離はお互いにかなり離れている。富士山も遠くで見るから、美しい。近くに寄ってみれば、「あばた」がたくさん見えてくる。
 「今」から考えるか、「未来」から考えるか、その差は大きい。そして、「今」から考えれば考えるほど、違いが際立ち、遂にはお互いの生存をかけた闘いにならざるを得ない。「今」から考える人は、物事を生物学的なデッドエンドから見ている人であろう。一方で、「未来」思考の人たちは、それを超越した仮想的なデッドエンドである。子供の頃には、その差はあまり目立たないが、成長すればするほど、両者の差は開き続ける。ゴールが近づきつつある人と、ゴールがまだ果てしなく先にある人との違いがそこに生じる。
 人間にはイマジネーションの力がある。それが人たるゆえんであろう。従って「何故人はこの世に生まれてきたのか、どんな価値があるのか」との問いに対しては、「生物学的なデッドエンドを超越して、次の世代に思いをつなげていく所に人間としての価値が生じる」と答えざるを得ない。

 

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