ゆうちゃんは、もうじきひとつになる、おとこのこ。「ゆう」ちゃんとよびかけると、「あーい」とへんじをする。そんなゆうちゃんの「ゆう」から、回りの人たちは色々な連想をする。「ゆうびん」のゆう?、「ゆうえんち」のゆう?、「ゆうだち」のゆう?、などなど。でも、ゆうちゃんはそんなこと、おかまいなく、しらんかお。ゆびをなめている。
生まれた時には感覚器のかたまりの様な存在であった「ヒト」が、様々な動くモノや環境との「対話」を通して、自分自身を見るフィルターを創り上げる。プラスであろうと、マイナスであろうと、それらはすべて、回りが見る「目」をコピーしたもの。彼、彼女らがより大きな社会に出て行く上で、土台となり、より大きな建築物をそこに構築していく。もしその土台が、「自己否定」という土壌であったとしたら、高層建築や加重のかかる建築物を建てる事は不可能であろう。一定の閾値に達した途端、ずるずると自己崩壊していくに違いない。人によっては、その「ぬかるみ」状態の基礎を自らの血や汗で固めていく作業をしていく者もいるだろう。だが、そこにはよほど、より良く生きていきたいという強い執念が必要となる。大多数の者はなす術も無く生涯を過ごしていくのではないだろうか?
「三つ子の魂、百まで」
こう思う時、こんなことわざの持つ意味の重さを実感してしまう。子どもはタイムトラベラー。その時の「大人」が決して見ることのできない「時」まで旅をする。しかも、前の「時」の前の「大人」の痕跡を残したまま。「前」の「大人」はそんな事を意識もしていないであろうし、後で意識される事も話題になる事も普通ないであろう。「弱者」の歴史は埋もれ、「強者」の歴史だけが文字となり、残されるのが常であるからだ。
「強者」の論理が強要されるのではなく、「弱者」の論理が十二分に尊重される「善意」環境の中で、「見守られ」感を持って、自らの好奇心というスポンジに様々な知見を吸収しながら、ありとあらゆる可能性を追求していってもらいたい。それが「後」のより良き「大人」への第一歩へつながるのではなかろうか?