「ファッション」は日常生活の中でよく使われる言葉のひとつであり、多様な使われ方をしている。その時々の流行とかいう時も使われるし、方法という時にも使われている。
さて、左に掲げた「ファッション都市論」中で、このファッションはうつろい易いもの、変化し続けるものであり、同時に集団内で共通認識されるものであると位置づけている。対照的な言葉として「スタイル」を取り上げ、その人らしさから発信されるものであり、変化しにくいものとしている。ファッションは”見られる”自分自身の姿を強く意識し、外部の「権威」あるガイド役によって造られていくのに対し、スタイルは”見せる”自分自身をイメージし、自分の感性に従って創り上げていく。両者の違いはそんな感じであろうか。
服は社会の中で帰属先を象徴する道具なのか、或は五感の心地よさとか表現意欲を満たす為の道具なのか、それぞれの見方により社会との関わりが大きく異なる。服は社会とその人を分つ(或は関係づける)バッファーの様なもので、社会(人の目)を気にすればするほど、服や皮膚は社会化(ファッション化)していくし、自分の中にあるものを主張すればするほど個性化(スタイル化)していくであろう。
パリは創造性にあふれた「ファッション」の最先端でありながらも、実はひとりひとりの生活は自分のスタイルに根付いたものであり、またパリほど「とんがっていない」ファッションのニューヨークでも、そこに住む人の生活は自身のスタイルから作られているとも書かれていた。つまりこれらの都市では、「ファッション」はアピタイザーであり、「スタイル」が主食なのである。一方で、トウキョウは「ファッション」を消費する事に集中し、その偏りを補う形で若年層がストリートファッションとして、自らの「スタイル」を主張している。が、あくまでもそれは主流とはなりえず、年齢を積み重ねるうちに「ファッション」世代に溶け込む。
そのように考えた時、このファッションの状況は今の日本を象徴しているなと感じさせた。自らの中核に「自分らしさ」を築く事を重要視せず、外部のオーソリティの流す情報をひたすら追い求める。しかしこれでは制度的、経済的な変化の中で、自ら感じ考えるトレーニングをおざなりにしてきたつけをいずれ払うようになるのではなかろうか。
今、例えば「あなたの人生の目的は何ですか。」と問われた時に、スラスラと答えられる人はどれだけいるのであろうか。