人は、心地良さと心地悪さの間で、自分自身の行動の方向性を決めている。それは、後天的に経験値から学んだ学習の結果でもある。心地よければ、そこに近づきたいと思うだろうし、心地悪ければ、自然にそことの距離を置く。そして、それらの心地良さと心地悪さを言葉化した概念が価値観と呼んでいる。
時に人は、会社組織などの外部環境の方向性と自身の価値観が合わない状況に置かれる。そんな時、人は全く気にしていないといいながらも、一方では「〜しなくてはいけない」「〜してはいけない」「〜なんて、できるわけがない」等の言葉を連発するようになる。
首から上の「思い」と首から下の「想い」にズレが生じる時、「思い」が「想い」を何とかコントロールしようとするが、自身が無意識に発する言葉までは、コントロールしきれないのが普通である。そして、それが長期になり、しかもその状況が大きなストレスを生んでいる時、首から下が「反乱」を起こすようになる。ズレを生んでいる過去の学習経験が、少なくとも「今」の状況にあっていないのであれば、再学習し、思いのフレームを再調整したほうがいいかもしれない。
或いは、その「場」の方向性と自身の価値観があっていない場合もあろう。ジェームズ・スキナー氏の言葉によれば、仕事を選択する時には3条件あるそうだ。つまり貴方がそこから学べるものがあるのか、共に働き「たい」と想える人がそこにいるのか、そして自分がその組織に貢献できるのか、の3点である。決して報酬で決めてはいけないとのことである。
人は幸せに生きるために、この世に生まれてきた。「幸せになる」という山頂にたどり着く為に、人は時に急斜面であっても、登り続ける。あくまでも、山頂が大事なのであって、どの登山道を選択するかは、方法に過ぎないのである。もし山頂から下を見下ろした時、どのような登山道が眼下に見えるであろうか?幾つかの道は見えないであろうか?
「想い」は、それぞれの人生のステージの目的であり、「思い」は、そのステージの目的を実現する為の手段にすぎない。そして無意識に人は「心地良さ」を選択し、「心地悪さ」から距離を置く。そうであるなら、自分の「想い」をより自然に実現したいのであれば、「思い」や「場」の再定義をするしかないだろう。