目線

さとるのじてんしゃ

 さとるは、小学生の男の子。どうしても欲しいものがある。それは自転車。お友達はみな、自転車に乗ってお出かけ。だから自転車を持っていないさとるは仲間はずれにされる。おとうさんやおかあさんに言ったけど、「あぶない」と言うのみ。だけど、ある日、たくさんの車が走っている側で自転車に見とれて歩いている時の姿をおかあさんに見られて、ひやっとさせてしまったらしい。そのせいであこがれの自転車を買ってもらったんだ。それでうれしくうれしくて、自転車を乗り回していたんだけど、トラックにあやうくひかれそうになっちゃた。そのおかげで、おかあさんは僕に・・・・

 「親」にとって「子」はいつまでもハイハイしていた時のまま。こけて膝がすりむけない様についつい手を先に出してしまう。だけど、「親」は気がついていない。子供の目線は日々、高くなりつつある事を。目の前が膝であった頃は、子供が富士山を見上げる様な目で大人を見上げていたのが、いつの間にか目線が腰、胸、そして肩と伸びている。それにつれ、眼前に広がる風景は広くなり、その風景から子供は様々な知識知恵を吸収している。

 すべての子供には限りなく大いなる可能性がある。大人にとってそんな彼ら彼女らの内なる声を自ら引き出せる様に環境を整える事が本来の望ましい姿であろう。そして時に大きな節目においては、ひとつの方向性を示して、大人としての見識を表明する事も重要であろう。いわば、「マーケティング」と「セールス」の関係に似ている。商品価値を創り上げるのが「マーケティング」の仕事であるなら、その商品価値を個々のお客様に伝えるのが「セールス」の仕事。どちらも大事だが、少なくとも環境設定せずに、セールスすれば、それは単なる押しつけに過ぎず、いずれそっぽを向かれるであろう。

 お人形を抱っこしてかわいいだけの存在もやがて自らの好奇心を満たす為の一歩を歩み出そうとする。この時、今風のリスク管理への配慮をしつつも「邪魔」をしない、見守る姿勢をとる事が、後から来た「大人」に対しての、前からいる「大人」の望ましい姿である様に思う。

 

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