つながり

“葉っぱのフレディ”, レオ・バスカーリア作
 人はその最期まで何度、納骨に立ち会うのだろうか。年月を経るにつれ、自然にその場面に遭遇する。そして実感として、喪うことの哀しさを身をもって知る立場になる。

 初めは、その時の喪失感から、身内であれば、虚脱感が続くであろうし、たとえ縁が遠くても、やはりいくばしかの虚無感は残るだろう。そして、そんな事をいくつも重ねて続けて、ようやくひとつの悟りがおぼろげにも見えてくる。

 その過程では、例えば思春期には、「人は何の為に生きているのか?」という、哲学的な思いを張り巡らす場合もあろう。これは絵本である。にも関わらず、こういった多分、人が辿るであろう、ひとつの道筋をまさに幼児でもわかるぐらいの内容で、書き下ろしている。

 人は結局、後から来る人の為に生きている。そんな事が何となくわかっていたから、自分の終わりを予感しても、フレディは「痛くもなく こわくもありませんでした」と思ったのだろう。

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