存在の連続性


携帯電話やパソコンの無いころのほうが、人の思いも濃密に伝わっていたような。
手軽に繋がるようになると、希薄になるような感じですね。
人と人のつながりは、手段では解決しないようです。
渓谷を流れる水は、上から下へ絶え間なく流れるから、いろいろな表情を見せてくれる。
絶え間なく流れることが使命のようにも思えてきます。
絶えることを恐れているのかもしれませんね。

 

“おじいちゃんは106さい”, 松田もとこ(作)/菅野由貴子(絵)
 どの時代においても、人はつながりを求め、その為の手段を開発して来た。

 のろし、飛脚制度、郵便制度、電信、固定電話、そして、携帯とメール。そして携帯とメールに至っては、個別性が高くなり、家族などのグループとの共有領域を敢えて持とうとしない限り、価値観の共有や世代間の交流を避ける事が可能になったように思える。共通な場所や時間にいる事が可能なグループか、同じ価値観を有し、ある意味心地良いグループとのつながりを自然に深めようとするだろう。

 この絵本にある様に、3世代以上の家族の中で、異なる考え方、思いを理解しようとする基盤が創られる事が理想であろう。その中で、人の「生」から「死』までを一貫した自分自身の歴史の中で体験する事により、「体験として」として、絆体験が心に残るのではないのか。そして自分自身がどのような状況になろうと、存在する事を確信でき、「絶える事を恐れる」必要はなくなるのではないだろうか?



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