事実に対して嘘をついているわけではない、ただ、自分の気持ちに嘘をついてしまうことはよくある。素直に生きようと思っていても、どうしても素直になりきれないときはいくらでもある。<br<
“だいすきっていいたくて”
カール・ノラック(ぶん)/クロード・K・デュボワ(え)
タイトル通り、これはリスの子供が朝から「だいすき」と言いたくて、でもなかなかきっかけがつかめず、いいだせない様子を描いた絵本だ。最後には、誰も相手にしてくれなくて、ふてくされていたが、両親が「どうしたの」と尋ねたことから、その思いがまたふくらみ、とうとう破裂する様に、「だいすき」と言ってしまう。
喜びと悲しみ、笑うか泣くかの単純な感情表現しか出来なかった存在が成長するにつれ、徐々にその隙間を埋めるかの様に微妙な感情の表し方を覚えて、それぞれの場面にあった表情をを見せるようになる。本来なら、より繊細な表情をすることができ、しかも知識や知恵も増えてくる訳だから、より生き易い状態になるはず。しかし、現実はそうはならないようだ。大人になる事で、かえって失うものがあるようで、やたらに鎧兜の量が増えてきて、体が重くなってしまうのではないだろうか?人は「裸」で生まれ、「裸」で死んで行く。
傷つけられる事を恐れ、身をガチガチに守ろうとする行為そのものが実は、自らの生きる意欲をそいでしまっているように思う。グループの中でしか通用しない「ルール」を守り続ける事で、安心感を得て行く村的な社会では人に対して、信頼感を持ち続ける事が出来ず、「素直」に自分の感情を表す事が難しいのではないだろうか?(参考文献”信頼の構造—こころと社会の進化ゲーム”, 山岸 俊男著)そして、このような姿勢でいる限り、同時にその後ろ姿を見ている子供まで、生来もって生まれた有り様からずれ始め、まさに「りっぱな大人」になってしまい、結果として、「素直な表情」をする事が難しくなるのではないだろうか?