“ひろいそら あおいそら”
ベラ・B. ウィリアムズ (著)
エラは小さな女の子。何かしたくて、おじいちゃんからもらった、たこをおかであげようと、きのむくままにおそとにでていく。
たこがあがれば、かあさんがはしって、みにきてくれる。おなかがすけば、おばあちゃんがゆうしょくをよういしてくれ、ねむたくなれば、おねえちゃんがもうふでくるんでくれて、おとうさんがうたをうたってくれた。それでげんき、げんき。
「わがままにふるまう」と「したいことをする」は視点の違いの差。前者が「する」側、後者が「される」側の目を通している。「する」側の大人たちが「される」側の子どもの思いを「空気」のように受け止め、ダンスのようにリードし続けるなら、やがて、子供たちは自信を持って、一人で歩みだすだろう。空気は普通、意識する事はない。意識する時は、何か異常が生じている時だけ。大人の愛も空気の様なもの。意識する事はあまりないが、少なければ、不安を抱えて生きて行くようになる。
「したいことをする」という生まれ持った特徴がある子どもの周りを空気のように包み込んであげ、「できる」事が自然であるように感じさせる事が理想的であろう。もちろん彼ら、彼女らは、そんな事など覚えていないであろう。だがどのような逆境にあろうと、その時の体験が彼ら、彼女らを包み込んで、いつまでも守り続ける。そんな環境は多くの人たちにとって、桃源郷になってしまっているのだろうか?